龍水呉服の歴史
おいたちと龍水社
上伊那誌現代社会編より
上伊那誌現代社会編(上伊那誌編纂会・昭和42年刊)の第3編産業経済、第3章農林水産業、第4節組合製糸の項には、上伊那の農業協同組合の源流となった組合製糸の歴史について下記のように記載されている(写真は別に追加掲載)。
横浜開港以後、次第に専業の蚕種製造業者や製糸業者が増加したので、長野県では、明治7年に製糸業者・蚕種製造業者・養蚕農家の合同した生糸同業組合を作らせた。然しこの組合は、生糸の共同揚返や生糸の共同販売、原蚕の共同飼育や蚕種の販売協定等が主な仕事となり、直接養蚕家の利益を守る事はできなかった。その後蚕糸業関係の組合はいろいろ改変したけれども、製糸・蚕種製造に関するものばかりであったが、明治31年6月28日東春近村に発足した「合資金会社上伊那社」は純然たる養蚕農家のために、養蚕家だけで製糸工場を経営する全国で初めての組合製糸であって、龍水社の芽生えともいえるものであった。
上伊那社発足当時は郡下の製糸工場が少なく、地区の産繭を消化しきれない状態であった。当時の郡下の製糸釜数を見ると、明治21年に2.877釜であったものが27年には831釜に減じている。これは例えば高遠の明十社(303釜)、赤穂の太陽社(202釜)、高明社(132釜)、中沢天竜社(244釜)、伊那の中伊那社(254釜)、箕輪の東洋社(250釜)等の組合や大会社が解散して加盟業者が廃業したり、規模を縮小したりするものが多かったためである。製糸工場が少なくなると、この地の養蚕家は繭の発蛾を恐れて仲買人や工場の言いなりに繭を買いたたかれる上に、製糸業者の破産に遭って繭代の取れない事も度々であった。
そこで、東春近村の飯島国俊は浜島富次郎・河野平十郎・飯塚兼蔵等に呼びかけ、自家産の繭を自ら生糸にして販売するために、明治31年に産繭処理会社である合資会社上伊那社を設立した。当初の組合員数は43名で、出資口数44、1口の出資額は10円であった。工場施設に金をかけないで、10年程度で建てかえる計画の粗末な工場を建て30釜で発足した。組合への供繭責任額は初めは20貫で後には産繭の全額としたが、糸価の変動によってはその配当金が一般の繭価より下廻る場合もあり、又生糸の生産額が少なく、販売にも不利という困難を重ねていた。
明治38年上伊那社は産業組合法により、「生糸販売組合」として正式の認可を受け「有限責任上伊那組合」と称した。組合数は143名で、1町8村に散在していた。工場にはイナズマ式繰糸機40釜を設け、この年3.160貫の供繭を受けて、300貫の生糸を生産した。この売上代金は18.790円であった。なお糸量は繭100匁につき9匁8分で、生糸100斤平均966円で販売できた。この年の繭代金の配当は1貫匁につき春蚕は4円88銭、夏秋蚕は5円であって、市場価格より20銭高額であった。なお繰糸工女は近隣の農家の娘が採用されたが、後には未婚の年少女子も就業し、男子工員は役員が当たった。女工1日の平均繰糸量は58匁であった。
大正2年、郡下の組合製糸は次の8組合であった。
組合名 | 組合長 | 所在地 | 釜数 |
---|---|---|---|
有限責任 上伊那信用販売組合 |
飯島国俊 | 東春近村下殿島 | 50釜 |
有限責任信販組合 下仁田社田切組 |
山田織太郎 | 飯島村田切 | 42釜 |
有限責任信販組合 下仁田社伊那組 |
渋谷九市 | 伊那村 | 20釜 |
有限責任 本郷信用販売組合 |
織田一郎 | 飯島村本郷 | 60釜 |
有限責任 片桐村生糸販売組合 |
桃沢智広 | 片桐村 | |
有限責任 箕輪村生糸販売組合 |
向山治雄 | 箕輪村 | |
有限責任 七久保村生糸販売組合 |
満沢勝太郎 | 七久保村 | 66釜 |
有限責任 南向村生糸販売組合 |
小杉大八 | 南向村 | 28釜 |
上伊那社で横浜の茂木商店へ生糸を出荷するのに、1梱出来るのを待ちきれないで56斤2分5厘を送ったら、54斤受け取ったという通知がきた。充分に乾燥した生糸が短時日の中に2斤以上も減る筈がないから、看貫に立ち合わせてくれというと、面倒をいうなら品を出して貰わなくてもいいと言われたが、こんな事は普通の事であった。
東春近村飯島国俊、田切村山田織太郎、本郷村織田一郎等は率先して、連合会の設立を呼びかけた。そこで大正2年10月26日郡蚕糸課の協力を得て、蚕業組合上伊那部会の推進によって郡内生糸販売組合協議会を開催し、7組合代表者11名の参集を得て、満場一致連合会設立を決定した。然し組合員の賛成を得られず参加保留の組合もあったので、その説得を重ね西箕輪に新設された南信生糸販売組合(長原寛一郎)も加え、片桐村組合未加入のまま8組合で大正3年4月24日連合会設立の認可を受け、有限責任伊那生糸販売組合連合会龍水社として発足することとなった。
この連合会の存続期間は20年とし、10釜につき1口50円の出資をすることにし、本社は赤穂におき、同年6月25日に事業を開始した。釜数合計338、払込金額1.350円、初年度生糸販売高517梱、224.599円で、一流の大工場に対抗できる本県最初の産業組合連合会であった。
生糸販売組合の先進地は群馬県で、上州南三社といわれた甘楽社・下仁田社・碓氷社が有名で、当郡でも田切組合、伊那村組合は下仁田社に加盟していた。本来の上州の各組合は養蚕家が農閑期に繰糸した生糸を共同販売する組合で、これが連合して上州南三社を作ったが後には組合製糸もできたので、その生産した生糸も併せて販売した。龍水社は初めから組合製糸の連合会として発足したので組合の団結や工場経営に極めて優れていた。
龍水社は発足の翌4年、早くも再繰機を本社に設備し、合同出荷のため「金竜」「金貨」の商標を設けて糸格の宣伝と価格の向上を図った。大正10年には本社に養成工場を新設して、新採用の女子工員に繰糸技術を授けて女工の養成を行い、各組合の生糸の品質の向上とその均一化を図った。組合員の農家のためには、繭代金の配当額を多くするだけでなく、進んで各組合毎に養蚕指導員を派遣して農家を巡廻指導させたが、指導員には有能なものが多く、蚕の先生として親しまれ、龍水社と農家の一体感を育てる事に多大な貢献をしつつ現在に至っている。 昭和7年、伊那市狐島に蚕種部を設け、交雑種3.866枚の採取を行ない、蚕種の統一による蚕作の安定と、糸質の統一に役立てようとした。又改良簇の使用を奨励するため奨励金を交付してその普及に貢献した。こうして蚕作の安定と繭質の向上という養蚕家の課題と、繭質の統一による糸質の向上と繰糸能率の向上によって配当増を図る製糸部門の課題を同時に解決しようとする方策を進めたのである。
昭和9年には本社工場の繰糸部に接して機械部を設け、蚕種から織り物までという一貫経営の形を作り上げた。
昭和13年、赤穂町に南部10組合の合同工場が完成、引き続いて伊那社・中箕輪・美篶・三峰の4工場を借り受け、昭和14年からは各組合毎の工場は全部閉鎖して合同繰糸をするようになった。昭和15年、支那事変の進行につれて蚕糸業統制法が施行され、龍水社蚕種部は上伊那社と蚕種共同施設組合を作ったが、昭和17年には名義を合同してその蚕種製造割当額363kgを生産、郡下全養蚕家に配給した。
昭和18年戦時統制令によって、日本蚕糸製造株式会社が設立されたので、龍水社は郡下の営業製糸と共にこれに参加して戦争下の統制に服したのであった。
戦後食糧事情の悪化の為に、再興の遅れた製糸業の中で、龍水社は農民の組織である強みから再建の歩みが早かった。殊に産繭統制時代の集繭組織を活用して、南向村・東箕輪村の一部を除く全地域の産繭を悉く手中に収め、その一部を郡下の営業製糸へ配分する態勢を作り上げた。
けれども産繭額は次第に減少した上に、製糸機械全般の自動化によって、一工場当たりの原料繭処理能力が大きくなったので、昭和33年には伊那工場(元長田製糸)、昭和36年には中箕輪工場を閉鎖し、(繭倉庫、乾繭機は残す)赤穂合同工場に200条どり自動繰糸機12セットを備えて生産を集中し、一工場のみで上伊那地区の供繭の大部分を処理することになったのである。
昭和40年度の龍水社の大要は次のようである。
所属組合養蚕戸数 7,490戸
上繭供繭額 1,351,670㎏
配当金額 1,132,067,795円
㎏当平均単価 春蚕1㎏当 837,531円
赤穂合同製糸工場
- 主要施設
- 乾繭機 3台 能力 1日36,000㎏ 新田畑式熱風乾燥機
- 煮繭機 2台(恵南式)
- 自動繰糸機 440条 6セット 恵南式SH型
- ボイラー 3基 横置多管式
- その他 副産物処理工場 揚返工場 繭倉庫 寄宿舎
- 従業員
- 男子37名 女子222名
- 勤務時間 1日7時間45分
- 給与平均額 男子24,500円 女子14,800円 外に年間賞与6ヶ月分
- 女子平均年齢 20才
- 教育施設 龍水修徳学園(諸種学校)
- 寄宿舎 15畳間 48室あり 1室に6名入室
以上、「上伊那誌現代社会編」より引用
その後、繭生産減少により平成9年10月31日をもって上伊那蚕糸販売工業利用農業協同組合連合会龍水社は製糸部門を廃止、平成10年6月にはJA上伊那に連合会としての権利・義務を承継し、協同組合運動の源流となり、農村救済に大きな功績を残した輝かしい歴史に幕を閉じた。 平成29年3月、龍水呉服はJA上伊那の100%子会社である株式会社グレースに業務承継され、JA上伊那と共に龍水社の伝統を受け継ぎ、株式会社グレース 呉服販売課「龍水呉服」として着物文化の普及、提案を行っている。また、組合製糸龍水社と上伊那の養蚕・蚕糸の歴史は、駒ヶ根シルクミュージアム で当時のようすを知ることが出来る。
伝統を受け継いで
上伊那の養蚕の歴史を受け継ぐ「龍水呉服」では、国内生産の反物(友禅・型染・ロール捺染)を中心に、縫製の工程を全て自社縫製の手縫いにて仕立てるMade in JAPANの本物を取り扱っております。
一生物として長く着ていただくことは勿論、子・孫へと受け継いでいただくことができる着物の良さを是非知っていただきたいと考えています。
上伊那はかつて、明治から昭和初期にかけて養蚕がたいへん盛んな場所でした。生糸商人の買い叩きに対し、養蚕農家は団結して組合製糸を作り対抗しました。これが農協運動の発祥とも言われています。その後、いくつもあった組合製糸を統合した龍水社は、地域経済を牽引する役割を果たしてきました。しかし、生糸価格の低迷などから養蚕農家は減少の一途をたどり、龍水社は平成10年にJA上伊那に承継、そして平成29年3月にJA上伊那の100%出資の子会社 株式会社グレースに業務承継されました。
龍水呉服(株式会社グレース 呉服販売課)は、龍水社の精神を受け継ぎ、呉服販売を通じて本物の着物の良さを多くの皆さんに提案しています。